雑記マスター

自分はお金持ちになる運命にあります。来年内に億単位の金額を手にします。

被害妄想が多い人は見る人を間違っているのかもしれない。

人生お花畑の人がいればこの世を地獄か何かと勘違いしているのではないかという人もいますね。

 

その違いは何でしょうか?

 

家庭環境とかそれを取り巻く人間関係とかその土地柄など縁のあるものは言えばキリがないのですが近所に幸せな人間がいようが不幸な人間がいようがどこに焦点を当てるのかは人それぞれです。

 

その環境を良いと感じる人間がいれば確実に悪いと感じる人間がいます。

 

世の中には大半の無関心な人間と一握りの味方と一握りの相容れない存在という割合になっていると思います。

 

という事はどこ行っても味方はいると考える人がいれば渡る世間は鬼ばかりと考えたりそんなのどうでもいいじゃんと周囲に無関心な人がいます。

 

場所によっては実際に素晴らしい人ばかりだったり逃げたほうがいいようなまともではない場所もありますが、どんなに苦しい環境でも一定数の良心を持つ人間がいない訳ではありません。

 

例えばアウシュビッツ強制収容所では絶望に陥る人が多い中でも常に相手の事を思いやって励ましていた太陽みたいな人がいたそうです。

 

そんな荒野に咲く一輪の花を目指すくらいならお花畑の中の一輪の花の方が気楽そうですが人生にお花畑はあるのでしょうか?

 

ブッダはあらゆる地を旅しましたが理想の地はなかったと言っていた気がします。(確信じゃなくてすみませんが誰かが確実に言っています)

 

どこにいっても新しい問題が起こるのでしょう。

 

脳はいつも指令を出しています。

 

そこに悩みという指令があります。

 

悩みがなくてもその指令をやめない限りはいつでも新しい悩みをこさえるので永遠に悩みから解放されません。

 

解放される方法はただ一つ、指令をやめてしまえばいいのです。

 

「そこに悩みが広がってるよ!」

 

と脳が察知したらこう言い聞かせましょう。

 

「そんなもの私に必要ありません」と。

 

もしかすると悩みというものは邪魔でもなんでもなくて自分が望んで求めているものなのかもしれませんね。

 

そんなのに構ってられる暇なんてない!と思えるようになった時また違う世界が見えてくるでしょう。

 

見返りを求めないやさしさは存在しないのでちょっと考えるべき事。

無償の愛、友情、恋愛、これらの親密な関係には高尚で理屈で計る事の出来ないものだと思ってませんか?

 

そう思って幻想を抱いている方は一度立ち止まってみた方が良さそうです。

 

貴方は付き合う相手を無条件に選んでいますか?

人の事にケチ付けるのは容易いので盲目になってしまいがちですが何事も自分に置き換えてみると簡単に分かりやすいです。

 

やさしさを無条件であると考えるとしましょう。

 

そこであなたは誰だろうと構わずにやさしさを振りまいたとします。

 

そうすると次第に

 

「こいつは何でもしてくれるぞ」と勘違いしてくる人が増えていきます。

 

貴方は無条件に相手に優しくしますが相手は完全に舐め切っているのでいくら優しくしてもそこに感謝は感じません。

 

それを当たり前と思い込んでいるからです。

 

嫌なものは全部押し付けられ、散々こき使われているのに報われない。

 

それでもやさしさを貫きますか?

 

だとするなら素晴らしいです。

 

あのイエスキリストだって他者に無条件に愛を注ぎ続けたのに最後には十字架にかけられ最後にこう言いました。

 

「神よ!私を助けてはくださらないのですか!」

 

メシア(救世主)である聖人の極致であった彼でさえ最後は報われませんでした。

 

死後、その功績が実って崇拝される対象となりましたが死んだ後で報われるってそんなのやってられますかね。

 

やさしさ=条件付きであると考えた場合、やさしさというのは時としてやかましいかも

やさしくしてるのに恩を仇で返された。

 

そういう経験はありますか?

 

優しくされた立場から考えてみましょう。

 

やさしさというのは見返りを求められているのですからされたら返さなくてはならない。

 

そういった感情が人には備わっています。

 

ただ、それをめんどくさい、煩わしいと感じる人もいます。

 

そういう人はやさしさだろうがはじき返します。

 

強そうに見られる人間が下手に出ると弱い人間に舐められる理由。

私は謙虚という言葉に騙され続けて来た一人だ。

 

弱い人間が弱そうに振舞っている。

 

そうすると周囲は手を貸したりしてくれるのかもしれない。

 

ただ、強い人間が弱そうにしているとどうだろうか?

 

これが面白い事に弱い人間は調子に乗って攻撃してくるのである。

 

強そうに見えたってそりゃあ落ち込みたいときだってあるが弱い人間は容赦しない。

 

彼らは自分の事で精いっぱいで食べられないかと常におびえて生きているのだから強そうに見られる人間はそれより少し穏やかでいられるゆとりを持っている事に感謝したほうがいいのかもしれない。

 

私は弱い人間には優しくするという教科書に書いてあるような道徳を信じていつだって相手を怖がらせないように振舞ってきた。

 

まだかわいい頃の私は大人に可愛がられたものだった。

 

それも大きくなって立派に成長したのだ。

 

真っすぐにストイックに生きた恩恵か目鼻立ちのはっきりして眼光の鋭い人相に生まれ変わってからというもの私の周囲は何かが違くなった。

 

当時はどうせ醜い嫉妬の類だろうとそう思いながら少し悩んだ。

 

何故か威圧的な関係ない他者まで反応して舐めた態度をとるのである。

 

私は全世界が敵になった気分で嫌になった。

 

というのは束の間で意外と弱い人間というのは一部なのである。

 

一日に何人とすれ違ってるかもわからないこの広い世界で私は見識があまりにも悪い方向に狭くなっていたのだ。

 

彼らにとっての私はやられたら終わりを思わせる何かがあるのだろう。

 

それが怖いのだ。

 

そんな大物が弱っているとくればやれる内にやっておこうじゃないかと強そうに振舞うのだ。

 

それが安心につながるのかは分からないが私は強く生きてもしも同じような思いをして苦しんでいる人には伝えたい言葉が一つある。

 

あんたは強い。その内に秘めた強さを無視するのは自分に迷惑なんだ。それを呼び起こそうと周囲はそう振舞っているだけなんだ。

 

一言に収まりきらなかった。

 

いっそもっと強くなって何よりもデカい人間になろうじゃないか。

 

私も貴方もみんな一人だ。

 

強くあれ。

 

旅をするとその場所に連動した記憶が呼び起こされる。

私は旅が好きだ。

 

最近はあまり出かけていなかったが時間があればほとんどを外でサイクリングをしていた。

 

都心から川沿いを走らせ眺める東京ツリーやスカイツリー

 

あるいは自然の見当たらないビルの集合地帯から抜け出して割かし自然の多い町、例えば練馬なんか気分転換に緑を見に来ている。

 

本当なら本格的な壮大な自然が良いのだが。

 

そこで思ったことがある。

 

何となく走らせているつもりでも精神状態によってたどり着く場所にはそれなりに釣り合った場所へたどり着く。

 

と言っても付く場所の理由ははっきりとしない。

 

だが、なぜだか大学のある場所ばかり巡っていたりサラリーマンの町だったりその日によって何かしら特徴のある場所にいる。

 

明らかに仕事姿の人だったりおじさんおばさんの多い通りや若者ばかりの場所だったりする。

 

これは東京の地域による露骨な住み分けという特徴によるものなのだが考えが凝り固まったりしているとやはりどんよりとしたあるいは濁った欲の渦巻いている場所にたどり着く。

 

気分がいい時には明るい綺麗な自然や若者のきゃぴきゃぴした姿を目にしては気分が更によくなって感謝すら芽生えてくるし逆に悪い時は人の憎悪というネガティブな感情ばかりに目が行って嫌な気分になる。

 

思ってる事に体が動かされてるみたいに。

 

高圧的な人に対して思う事。

なんだか物凄く攻撃的で俺は強いんだぞ!

 

って周囲から怖がられるタイプの人についての話をしていきたいと思います。

 

なぜ高圧的なのか?

人って自分に自信がないと相手が怖くなって強く振舞おうとするんです。

 

やられる前にやれというか対等な立場でやられたら確実に負けますからね。

 

なので姑息に強がろうとするのですが一度そのような態度を通してしまえば後に引けません。

 

そうやって強い自分である事を常に強いなければならないかわいそうな人なんです。

 

小さい犬なんてよく吠えるでしょ?

 

あれとやってる事は同じなんです。

 

私は穏やかに生きられる強さを持っているので感謝しています。

 

親が子供に舐められてると子供は外の人間に舐められる。

やさしさと甘えをはき違えていませんか?

 

人は誰からも舐められてはいけません。

 

これはものすごく大事な事です。

 

もし仮に舐められていいとするならその先はいじめに繋がります。

 

人間社会だって弱肉として生きていけません。

 

やさしさにも強さが必要です。

 

親の行動は子供がマネる

子供は親を選べません。

 

しかし、生まれ持った環境には親という一番身近にいる学びの対象が用意されています。

 

学ぶというのはマネる事ですのでいい事も悪い事も子供は判断できずにただ吸収するしかありません。

 

例えば子供がわがままを言ったとしましょう。

 

それにしつけをしないで我儘言わせ放題、次第に親に向かって反抗的態度をとるようになったとします。

 

親はその攻撃に黙って我慢し続けたとしましょう。

 

それは子供が外の世界で他の誰かから同じような場面になったときに同じ反応をします。

 

その状態が続けばいじめの原因になります。

 

かと言って舐められないために暴力で押さえつけると子供を非行、あるいは同じように暴力を受けるポジションを身に着けてしまいます。

 

どうすればいいのか?

舐められてはいけない。

 

そういう思考を持ち続けましょう。

 

行動はそのようになっていき、相手は舐めた態度を取れなくなります。

 

精神論は好きではないのですがこれに限っては覚悟です。

 

人は相手の覚悟を見抜きます。

 

マルチタスクはバカになると聞きながらもやってみた結果。

マルチタスクとは一度に複数の作業を同時進行にこなすという意味です。

 

遊びながら勉強して仕事出来たら一日中が充実して楽しそうですよね。

 

マルチタスクによって多くの作業をこなせば作業効率アップという意見もあれば本来一つにしか集中できない人間の脳でそれをやっても充実しているという幻想が得られるだけで効率が寧ろ悪く脳にも良くないという意見もあります。

 

そんな楽しみながら仕事みたいなのが出来ないかと思ってやってみました。

 

どうやってマルチタスクをすれば良いのか?

急にマルチタスクをすると言ってもピンとこないのでこちらの本を読んで参考にしてみました。

グレインサイズの高め方

グレインサイズの高め方

 

 脳科学者の苫米地さんがマルチタスクとその方法について解説しています。

 

この本によると、人間のこなせる作業には容量があってその中に大きい容量と同時にいくつも大きな容量を同時進行するには無理があるそうです。

 

大きな容量とは慣れてない作業とか複雑な作業です。

 

小さな作業は慣れている単純な作業。

 

例えば複数の楽器を同時に使いこなせる人はそれぞれの楽器を無意識に弾ける位、容量をゼロに近づけるほどたくさんの作業をこなせます。

 

マルチタスクやってみた!

私の場合、遊びながら学習がしたいので最近ハマっているモンスターストライクと同時進行でオーディブルという本を朗読してくれる音源を聞き流していました。

モンストみたいに単純作業に加えてただ聞いてるだけでいいaudibleはとても相性が良く、ゲームの楽しみと共に充実感 を与えてくれて相互作用によって長時間の学習が可能になりました。

 

一日10時間以上廃人みたく聞き流していた時もありました。

 

聞いた本の数は一日最大で8冊位でしょうか?

 

聞きなれてくると倍速も変えられるので殆どマックスで聞いていました。

 

ポイントはあんまり重たい本は流さない事です。

 

そういうのは普通に読むものだと思います。

 

マルチタスクの結果

数か月くらい実践してみましたがその間に信じられない位の自己啓発の類やちょっとした小説に触れる事が出来ました。

 

問題点と言えばゲームに集中すると音が聞こえなくなります。

 

というか意図的に脳がシャットアウトしています。

 

全体的に何となく内容を把握したり引っ掛かったところだけ必要な部分を抜き出して集中して聞くには向いていて有意義な情報もたくさん手に入って満足しています。

 

ただ、本格的に頭の体操とするには頭の捻りが必要な本を読まなくてはなりませんし、マルチタスクというのはどうもやった後は頭がぼーっとします。

 

どうやら頭の中で沢山の切り替えをしているので思考が追い付いていけない感じがあります。

 

それでもやっていて損をしたとは思わず、それなりに学習できたのではないかと思います。