より良く生きる

オナ禁など禁欲生活をしています。事の本質を見極めてどうすれば人は心地よくいられるのかそんな事を考えてます。

桃太郎のパロディー。童話とは残酷だ。

桃太郎のパロディーが存在することをご存じだろうか?

それがしかも芥川龍之介作という超有名人ときた。

この設定が既にパロってるんだけど芥川龍之介は桃太郎を題材にしてストーリーを描いているのだがその内容があまりにも醜いのでいい意味で度肝を抜いた。

賢い読者なら桃太郎は何で鬼を退治したのだろうと疑問を抱くのではないか?

そこを明確にしたホラーエピソードなのだ。

 

ここからはネタバレになるが、この芥川が描く桃太郎とは爺や婆と一緒に山へ芝刈りへなんてめんどくさいから

「そうだ!鬼退治しよう!」

とくる。

鬼を倒すとはいったが、理不尽極まりない事に鬼を倒すことに特に理由はないのだ。

更にはそこに登場する鬼達はとても平和に過ごしている。

子供を育てる鬼もいて、子供にはこう言っている。

「人間はとても恐ろしい生き物なんだよ。」

鬼たちは人間におびえながらひそかに生活しているのだ。

そこを悪事の限りを尽くす桃太郎が荒らしまわるのだ。

犬やサル達を引き連れて鬼達を虐殺する。

そして降参させた鬼を引き連れて宝物を担がせ村へ戻るのだとさ。

これが桃太郎の真実だというのか?

 

我々が知っている童話とは全くイメージに反するが、童話の世界ではありがちなことで本当にそうなのではないかと思えないでもないところが恐ろしい。

知っている人は知ると思うが西洋の童話はバッドエンドがばかりだ。

グリム童話アンデルセン、現代に伝わる有名な作品はアメリカディズニーのようなハッピーエンド手法によって工作されて誤って子供たちに伝えられている。

例えば

赤ずきんの物語はおばあちゃんも赤ずきんも狼に食べられちゃうんだよ。

猟師なんて知らないから。」

これはマジな話である。

こんな事を今では子供達には悪影響だと伝えたりはしないだろう。

しかし西洋の子供たちはこのような話をたくさん聞いて育つのだろう。

なんでこんなに残酷な描写にしないといけないのかというと、バッドエンドにしといたほうが得られるものが多いのだ。

普段から普通に生活をしているとそれが当たり前になってありがたみが分からない。

だからバッドエンドの後は返ってポジティブになるのだとさ。

めでたしめでたし。

 

恋愛に駆け引きは必要ない。必要なのは相手との意思疎通。

自分には恋愛の駆け引きとか浮気とか不倫が全く現実の出来事として入ってこなくて不思議です。

何故なのかというと合理的に考えたらそれは至極無駄な事だからです。

 

相手が何を考えてるのか?→聞けばいいじゃない。

 

好きな人が出来た。→話し合って別れればいいじゃない。

 

彼が振り向いてくれない。→とりあえず声かけようよ。

 

これだけなのに童貞の僕にはさっぱりドロドロとした恋愛が分かりませんね。

スマートでさっぱりしてたほうがカッコいいと思うんだよな。

 

 

なぜこんな書き込みをしたのかと言いますととある女性から駆け引きをされたからです。

その駆け引きというのは男をちらつかせるという悪魔の方法ですね。

そこで自分は思いました。

(自分に気があると思ってたが思わせぶりだったんかい!)

(なんか冷めたわ、ていうかショックで一~二年は立ち直れないわ)

純な童貞に影が差しました。

一言いいますが、一度信用を無くしたら二度と取り繕えません。

真面目な僕は一途なので信用を失った相手との先を考えます。

結論出ました。

彼女はとても美人で美しい方でしたが、「どんなに顔良くても信用できない人間は無理」

となりました。

この決断出した後の今でもずっと苦しんでうつになりましたが彼女を許してもパートナーとしてはなんと言おうが認められません。

僕がもし遊び人であったとしても彼女は本命にしませんし人間的感情は持ち合わせないでしょう。

世には多くの恋愛本に駆け引きが載ってますが風俗の客引きでもしたいのかと首をかしげてしまいます。

基本的に賢い男性に対しての駆け引きは見透かされるだけで馬鹿という軽蔑の烙印を押されて逃げられるだけです。

素直にコミュニケーションが取れていれば何も問題ない事なのです。

 

僕のいる世界はとても小さい

分かったようで何もわかっていない。

これはどんな天才にでもいえる一つの真理だと言える。

周囲を大きく眺められる人はその一つ一つの細かいところまで見ることはできないし、一つの事には他の追随を許さないなんて人はその他の事には全く目が届いていなかったりする。

頭のいい人は一つ一つの事を正確に捉えることが出来るけど同時に盲点が多いらしい。

これは上記した内容を裏付けている。

 

何でも分かった気でいる人は自分を小さい箱の中に閉じ込めている。

彼にとっての世界とは自分の部屋の中で、家の外の世界は偽物だと言っているようなものだ。

外に出るのが怖いのだろう。

家の外にはいろんな人がいるがその多くは理解不能だ。

一つ一つ調べてもきりがないし、インタビューしようものならノリのいい大阪人はともかく東京の人間からは相手にされない可能性も大きい。

そもそも何を聞くというのだろう?

「あなたは何のために生きていますか?」

とでもやっと捕まえた人間に聞いたら回答が返ってくるとも限らない。

それにもし回答が返ってきたとしよう。

「おいしいものを食べるために生きてます」

 

ときたらその人間はおいしい物を食べてないときは生きる意味などないのだろうか?

ますますわからない。

こんな小さな事すら正確に把握できないのに人間には何が分かるのだろう?

真理とは無なのだ。

そう悟った気でいる人間は無というものを誰よりも知っているのか?

その人の体はいま誰にでも見えるはずだがきっとこう答える。

この体は入れ物で本体は魂なんだ。

では魂は存在するのか?

存在しているならそれは無ではないしなおさら生身の体だけの人間は無ではないのではないかとなる。

こうやって屁理屈こねてると自分は誰よりも知った気でいる人間に対してより上にいる物知りのような気がしてならない高揚感が得られるが、俺は何を知っている?

何も知ってはいない。

おかしいな。

人に戯れてばかりいる人間よりなんだか科学者とか数学者のほうが高尚な気がするけど、人によっては頭が固そうな知識人を下に見ている人がいないとも言えない。

どうやっても本当の意味で人の上に立てる気がしない。

雑魚は戯れるのが動物の真理だが、人間の場合、組織は強い。

いくら強い人でも固まった雑魚相手に歯が立たない事が多い。

そもそも相手にしないのだが。

けど確実に人に階級を感じる事はある。

人望、知恵、身体能力、体格、オーラ(雰囲気)など目に見える形でそれを実感するそれなりに同じ認識を他の人間も持っている。

どうやって折り合いを付ければよいのか分からなくなる。

見えている強さにくじけそうになった時に人間は想像力を駆り立てて妄想に逃げるという考えもできる。

しかしながら実際に目に見えるだけが強さでない。

分からないものを求め続けるのが暇を持て余した人類に与えられた生きる意味なのだととりあえずそういうことにしている。

 

反応しないで生きよう。

反応することが自らに災いを起こしているのではないかとそんなことを思う年頃になりました。

大きくて強い事を自覚している動物ほど態度もずっしりと構えていちいち小さなことに反応しないものです。

チワワなんか小さい小動物もちょこちょこ動き回って過激に反応する姿は可愛らしいですがそれは小動物であるからです。

 

世の中人間の意識に働きかけようとする宣伝とか洗脳レベルで溢れかえってるくらいでその全てを処理することはできませんから何かに囚われるというのは無意味な事なのでしょう。

次から次へとうざったくなりさらにイライラばかりしてしまっては損です。

自分のやるべきことに焦点を絞ってしまえば他の現象を気に掛ける必要性はありません。

水のように歯向かわずに受け流してしまえばいいのです。

いくら衝撃を与えても水は一定の型を持たないのでどのようにでも変幻自在です。

壊れるという概念は存在しません。

 

夢の世界

夢の世界というのはとても魅力的で儚い。

その味わいは強烈であるが儚いからこそ意味があるのかもしれないと思う。

強烈が続くと疲れてしまう。

 

だからこそ記憶から多くの場合に消え去ってしまう夢には願望を抱いてしまう。

事実、夢には甘味でいつまでもそこにいたいと思わせるような引き寄せられる味わいを感じられる事もある。

その逆バイオレンスで命すら危ぶまれるスリルで済まされない刺激の強いものもある。

どちらも現実で描くよりも不思議の国のアリスで幻想的なのは間違いない

それらが示しているのは何であろうか?

個人的な解釈となってしまうがその強烈なインパクトは人間に新たな視点を与えてくれる。

例えば登場人物は知り合いであることが多い。

だからこそ少数の異分子(他人)にも大いに興味をそそられる。

夢が知り合いの場合、それが見せる姿は現実に見せない甘味や狂気を孕む

それをうまく表現して100%を芸術に生かせたらそれはどんな作品よりも優れた傑作を生みだすことだって難しくないとすら考えるがそれが出来ないのだ。

再現には限界がある。

その同じ体験を物として伝えようとした瞬間にそのものが持つ大切な何か大半の事が今までに存在しなかったかのように消え去ってしまう。

それ故夢とはとても貴重な体験である。

 

メディアを支配する存在。

世の中は金で動いている。
メディアだってそうだ。
お金が絡んだ瞬間にそれは公平ではなく、一部の権力者のための意図を持った洗脳手段になる。
メディアで力を持つ存在とは何か?

 

広告代理店である。
広告代理店は広告を管理してメディアに提供する。
広告がなければお金を稼げない。
これがもし、広告を提供しないぞとでも脅しをかけたらどうなるだろうか?
広告がなければ経営ができない。
こうなってしまえば言いなりになるしかないのだ。
中でも大きな力を持つのが電通だ。
広告代理店の半数は電通によって賄われている。
メディアの実権は電通が握っているとも言える。
なのでメディアとして電通に逆らうような報道はできない。
また、過去にnhkが安倍首相から報道について干渉を受けた事があると言っている。
メディアは政治の道具としても利用される事が垣間見れる。
それは国内に限らず、アメリカが多額の金額を提供して報道を操作したこともあった。
何が行われているのかマスコミを通して不都合な事実は流れないのかもしれない。

なのでこの情報ももしかしたら消される可能性がある。

 

子供を成長させる為には安心を与える。

人は何かに挑戦するときには不安が生じます。

その不安に立ち向かう力というのは家族や仲間から培われる安心です。
と言う事はネグレクトや過干渉など子供の不安を与える行為はとても悪影響なのです。 子供の歩幅に合わせてマイペースに子供の不安を取り除いてあげる事が子供自身から多くの挑戦する力を引き出して結果的にどんな形であれ成長を促します。
  何がともあれ挑戦しないことには始まりませんし、その子の適性だって分かりません。
数学者やスポーツ選手だってやってみない事にはその人に向いているのかなんて分からないのです。
一番やってはいけないのは子供に親の願望を背負わせてあれこれ押し付けることです。
それは子供から好奇心を奪い、不安ばかり増幅させるばかりです。
その末路というのは不登校だったり、ニートであったり無気力な人間を生み出します。
人との信頼関係やそれから得られる安心というのは一見、勉強など人の成長には関係なさそうに思えるかもしれませんが実はそれは人の成長に大きく関わっているのです。
ちなみに猿の脳みその大きさは毛づくろいする猿の数に比例します。
人間も同様に豊かな人間関係というのは豊かな知識や知恵を生み出すのかもしれません。
何よりも生まれてきた以上は心豊かに生きたいですね。